帯広平原通りを中心とした

帯広商店街物語

6.昭和5年に藤丸百貨店移転

 昭和5年に帯広駅が改築された。その年の12月には西2条8丁目に藤丸百貨店が開業した。木造一部鉄筋4階建て、延べ800坪。帯広では初めてエレベーターを備え、道東初のデパート誕生であった。
 大正15年の上士幌線(帯広−士幌間)と昭和4年の広尾町線(帯広−中札内間)の開通に加えて、藤丸の出現は西2条通りの商業地としての優位性が決定的なものとなり、大通り5丁目と電信通りを中心としてきた繁華街が、にわかに西2条にとって変わることになる。

 そのあかしとして、昭和7年には西二条橋から
駅前までがアスファルトの簡易舗装になった。
 昭和9年から10年にかけて、帯広と音更を結ぶ
十勝川の河西橋を永久橋に架け替える計画が持ち上がり、その建設位置が論議をよんだ。
 最初は大通りの延長線に設計されていると伝えられ、西2条側の住民が猛烈な誘致運動を展開した。
 大通り側は架け替えを機に、中心商店街として
の地位を奪回しようと「生活権の擁護」を旗印に
阻止運動を展開した。この運動は、マチを二分した騒動となり、結局両者の言い分を取り入れて中間に架橋することで決着した。
 昭和12年の支那事変勃発で次第に戦時色を強め、13年には配給統制が開始された。

 16年12月、大東亜戦争がはじまると百貨店も売り場を縮小され、業種別に統制会が設けられ、企業整理や転廃が相次ぎ、商業界は火が消えたような暗い戦争時代へと突入していく。
 20年7月には官公庁などの重要な施設を守るために帯広の中心街の強制建物疎開が行われ、大通りから西3条間の3〜4丁目、8〜10丁目を中心に木造住宅やバラックのマーケットなど約200戸が撤去され、5,700坪が空き地とかした。西2条通りでこの疎開からまぬがれたのは銀行や志田病院、北農病院、藤丸、千秋庵その他の商店であった。
 その翌月には終戦が突如訪れた。
 その強制疎開跡地は、戦後最適の露店市場となり、バラックの闇市に変わった。最も早かったのは、21年秋開業の8丁目線広小路「新興マーケット」、次いで23年帯広駅前西側の「満蒙マーケット」などが雨後の竹の子のように誕生した。
 しかし戦後もひと段落した28年には、多くの路上マーケットは姿を消し、これによって帯広市の中心部の街並みは序々に改善されていく。


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