帯広平原通りを中心とした

帯広商店街物語

4.駅前の店舗

 帯広駅が開業して以来、中心部は次第に駅方面へと南下して大通り3〜5丁目、西2条6丁目から河西橋間、大通りと西2条間の3丁目線、5丁目線が一時期栄えた。
 裁判所用地の開放に伴って大正9年には大通りと西2条間に生まれた露店は、間もなく「夜店通り」と呼ばれる盛り場となり、電信通りと対抗できるまでになった。
ここで、当時の帯広駅前の店舗状況を見てみよう。

 十勝の玄関口となった駅前には明治38年、西2条11丁目(旧十勝バス)で曽根原浜三が曽根原運送業を開き、二階で旅館業を経営した。
 さらに翌39年には駅前西側(旧はとやビル)に信陽館を新築した。40年には小泉碧が北海館を移転新築している。
 明治末期から昭和初期にかけて西2条通りに誕生した主な旅館は、西2条11丁目の「信濃館」、西2条4丁目の「曲(カネ)森旅館」、西2条10丁目の「つるや旅館」、同じく「東洋館ホテル」、西2条2丁目の「越中屋旅館」、西2条10丁目の「石川屋旅館」などがある。
 大正4年に帯広町は一級町村制を施行した。この年の戸口は1,950戸、1万6,081人とな
っている。職業別戸数では、官吏・教員419戸、農業358戸、商業342戸、労働307戸、工業26戸、医師・薬剤師14戸、その他384戸という内訳である。
 大正11年6月には帯広駅から西2条9丁目にかけて下水溝が設置され、翌12年には大通りと西2条8丁目から帯広川までが整備された。

13年には西2条通りに「馬つなぎ杭」が設けられた。「馬産十勝の首都、帯広の市街地に馬を繋留するところがないのは不便」だとして帯広実業協会(帯広商工会議所の前身)が商店街の協力を得て設けたもの。
 農村部
から馬車でやって来る人々には喜ばれたが、やがて自転車やオートバイ、自動車の普及にって逆に危険なシロモノとみなされ、昭和5年にはあえなく取り除かれた。
 大正11年7月に東宮殿下(昭和天皇)の帯広行啓の際、市街地があまりにも殺風景なことを痛感した藤本長蔵が、帯広営林分署からアカシヤの苗木2,000本を譲り受けて私有地で育て、昭和2年から西2条と西1条通りに順次植樹した。
 また藤本は、帯広在位25年以上の有志で「温故会」を結成し、記念事業として帯広川の西3条橋から帯広神社裏まで数千本のサクラを植樹したが、これは数年で枯れはてたという。

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