帯広平原通りを中心とした

帯広商店街物語

3.鉄道の開業

 明治36年には建設中の釧路線が浦幌まで開通し、翌37年には利別まで迫った。この前後、
帯広停車場の設置位置を巡り、石狩通りと東1条通りが候補にあげられたが、石狩通りは

 31年の十勝川大洪水に見舞われており、東1条通りは
利権あさりの土地買い占めがあったため西2条に決まった
−とされている。
 駅舎の建設予定地は十勝監獄の用地であったため、道庁の園田安賢長官から十勝監獄に対し鉄道用地として組み替えを要請し、3,568坪の用地が停車場用地、7,344坪が
線路敷地として開放された。
 38年10月20日、待望の釧路−帯広間が全線開通、町民約500人が日の丸の小旗を振りかざして初列車を迎えた。
またこの年の11月には十勝川に架かる
「開盛橋」(明治44年には官設の河西橋、後の十勝大橋の
前身)が完成したことで、帯広駅と西2条通りはにわかに商店が張り付き、活況を呈してきた。
明治37年発行の「帯広市街明細地図」によると、当時の西2粂通りには次のような有力商店や施設があった。

 西2条3丁目 永祥寺、測量製図・奥田平蔵
 西2条4丁目 質業・野村文治、帯広郵便局
 西2条5丁目 根室銀行帯広支店、竹内治良平商店、一等旅館・河西館、市岡雑貨店、
         米穀雑貨・高見商店、松永久米吉商店、大井上前商店
 西2条6丁目 福西雑貨店、泉湯・細野金松
 西2条8丁目 便利舎・酒井章太郎、帯広区裁判所
 またその頃の西1条には6丁目で田村履物店、8丁目で近江栄作商店、9丁目で人馬継立・上田喜七、十勝印刷所、柾製造・田中卯一郎、11丁目で真宗大谷派帯広支院などが張りついていた。
 帯広駅の開業や、開盛橋の完成などで十勝川の対岸、十勝北部の音更地区から大・小豆の雑穀が西2条通りに搬送されるようになり、明治末期から大正にかけて十勝川付近と駅周辺には雑穀商が次々と開業するようになる。

 石狩通り(現在の国道38号)から北の西2条は「音更通り」と呼ばれ、芳賀繁雄、梶尾福太郎、加森太七、中林市太郎、中島勘七、村田三五郎、栗山伊三郎、山岡光次郎、前野太七、松浦伊蔵などの有力者が店を張った。また駅前では、橋本正一、岡定市、服部力、保科真平、山茂、青木四郎吉、齊藤繁治、岸明治らが西1条から3条にかけて営業していた。

 明治39年に帯広駅から積み出された雑穀は、前年よりも3万俵多い14万俵に達した。第一次世界大戦の勃発で青エンドウ、大福豆が高値をつけ、特に大正6〜7年頃には5倍から7倍にもはねあがり、十勝では“豆成り金”を生んだ。
 明治30年代から帯広の露店がはじまっている。最初は帯広神社(明治35年に帯広市東2条13丁目の草原に「帯広神社」の標木を立てたのがはじまりで42年に町有地の無償貸付を受けて現在地に拝殿が造営された)の祭りや、競馬の人出を当て込んで開かれたが、明治の末期からは大通りと西2条間の3丁目付近に常設されるようになった。
大正に入ると電信通りに移り、同11年頃になると8丁目線に再度移った。
 明治40年8月には帯広−旭川間の「十勝線」が開通し、「釧路線」と結ばれて旭川一釧路間の「新釧路線」となったことで、帯広駅は名実ともに十勝の表玄関となった。
 当時、最も盛況をきわめたのは雑穀業者と飲食業者であった。石狩通りの北側と3丁目あたりが賑わいをみせ、近くにあった「木賊原遊廓」が最も繁栄した時代でもあった。
 一般の業種は、明治38年頃までは大通りを繁華街としていたが、その後西1条の5〜6丁目、大通り6丁目の電信通りに移った。
西2条通りが商業者に敬遠されたのは、裁判所と諏訪牧場が8〜9丁目の大半を占めて北と南の町並みを分断していたためである。
 市街地の発展を阻害する形の裁判所用地を巡って、大正5年頃から開放を求める動きが住民の間で高まってきた。7年、裁判所は庁舎を西3、4条の9丁目に移り、翌8年2月に8丁目を公売にかけて開放した。
このことが、西2条通り発展の起爆剤となったのはいうまでもない。
 9年には十二銀行(後の北陸銀行)が西2条8丁目に開設され、10年10月には西3条8丁目に帯広町役場が建設されたことで、現在の西2条8〜9丁目周辺はにわかに新繁華街の様相を呈した。

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