帯広平原通りを中心とした

帯広商店街物語

.商店街が大通りに移動

 明治27年には大通りが貸付となり、翌28年にはその延長線上に北海道集治監十勝分監が開庁すると、オベリベリ界隈の商店は先を争うように大通りへと移動していった。大通り西仲通り10丁目から十勝分監(現在の緑ヶ丘公園)に向かって斜めの通りが付けられ、通称「監獄通り」と称されていた。
 29年に入ると、十勝国の植民区画地の貸付停止が解除され、原野の貸付開始によって大量の移民団が十勝に入地してくる。30年11月には河西支庁が開庁、帯広−大津間に電信が開通(モールス単信機)、晩成社付近から南5丁目線をへて大通り8丁目の帯広郵便局に至つたが、この5丁目線はやがて「電信通り」と呼ばれるようになった。
 30年の下帯広村の戸口は304戸、1,009人たらずであった。この年の12月、藤丸の創業者、藤本長蔵が大通り6丁目に太物店を構えた。当時の大通り3丁目から10丁目にかけて次のような商人が開業していた。

米穀・雑貨店 戸倉豊吉、松本直松、浜口支店
雑貨店    大井上前、竹内治良平

         小林直次郎        
金物店    安井嘉兵衛
荒物店    栗山恒次郎
旅館     大山銀次郎
呉服店    長井長吉
         珠玖良造
洋小間物店  古沢松之助
日用品店   本名宗三郎
       松本浅次郎
       小林新太郎
時計店    斉藤巳吉
種物店    内山孝太郎
雑穀店    西村大蔵
     

職業別戸数では、官吏204戸、商業51戸、農業31戸、古物商13戸、料理店7戸、医師4戸、湯屋2戸となり、十勝国全体の商人が155戸であったから、その勢いは目覚ましいものであった。この年、日本銀行帯広支金庫が大通り8丁目に開設され、繁華街は大通り8〜10丁目へと移った。
 31年になると、札内川に私設の栗山橋が完成し(大正11年札内橋と改称)、帯広から石狩国に通じる道路(芽室一旭川間)の建設が着手された。この年には金物農具の三井徳宝ら、その後の帯広の商業界を牽引する有力業者が相次ぎ開業した。
 32年には釧路区裁判所帯広出張所が大通り12丁目に開庁され、35年には西2条本通り以西、西4条本通りまでの8、9丁目の大区画を敷地として「帯広区裁判所」が開設された。
32年からは西2条通りの市街化区画が貸付られ、最初は3、4丁目付近から土台付きのバラック建ての家屋が建つようなった。
 33年4月には釧路−帯広間の鉄道「釧路線」が釧路から着工した。旭川−帯広間の「十勝線」建設はそれより先の30年6月から開始していた。
 下帯広村も明治35年には戸口も802戸、3,176人を数え、大通りをメーンストリートにして、西2条から東3条まで家並みがつながった。道庁は二級町村制を施行することになり、帯広も組み入れられ「帯広町」となった。晩成社が入地して19年、戸長役場が開設されて9年目のことであった。
 この年、帯広に来た宮本商産創業者の宮本富次郎によると、当時の西2条通りは8丁目付近までは家があったが、3〜5丁目を除いてまばらで、8、9丁目の西側は裁判所の敷地。9丁目の東側は元支庁長の諏訪鹿三が牧場を開いていて10頭ほどの馬を飼っていた−という。
 また臼田梅の話では「西9丁目に裁判所の正門があり、3町歩ほどのカラマツの植え込みがあって、敷地内はカシワの大木が林立していた。諏訪牧場は7戸分(1,134坪)の広さで、リンゴを植えていたので8〜9丁目は夜になると真っ暗で通る人もいなかった」という。


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