帯広平原通りを中心とした

帯広商店街物語

1.帯広の生い立ち

 帯広の開拓の祖とされる「晩成社」の依田勉三は明治15年7月、同志の鈴木銃太郎とともに十勝国河西郡下帯広村のオベリベリを訪れ、開墾の地に選んだ。銃太郎はオベリベリに残って越冬、帯広に定住した最初の和人となる。
 翌16年4月、勉三は渡辺勝ら同志13戸、27人を引き連れてオベリベリに移住し、帯広川沿いに掘っ建て小屋を建てて一集落をつくったのが帯広開拓のはじまりとされている。
 帯広の地名について晩成社、渡辺勝の妻、カネによると、元は「オペレペレケプ」といつていたが、それが「オペリベリップ」、さらに「オベリベリ」と呼ばれるようになり、明治38年に釧路一帯広間の鉄道が開通してからは漢字の「帯広」となった。オベリベリの地名はその後、東3条以東の電信通り以北を指すようになった。
 明治25年4月、大津港から帯広をへて芽室に至る「大津街道」約68kmが北海道集治監釧路分監の囚人の手で開削され、翌26年5月に竣工したが、その際に帯広の市街地予定区画がはじめられた。同年秋には1,900戸分の区画が行われた。宅地一戸分は間口6間、奥行き27間の162坪。番地は植民地と同じく南から交互に数え道路の東側を偶数番地、西側を奇数番地とし、整然とした碁盤の目に割った。

266月には十勝外四郡各村戸長役場(大津)を分離して河西外二(河東、上川)郡戸長役場を下帯広村(現在の帯広神社社務所付近)に設置、ここに行政機関としての機能を備えた下帯広村が誕生する。
この年、小林直次郎が十勝分監の御用商人として草小屋の商店を構えたのが帯広最初の商人とされる。
 271月からは市街地予定区画の貸付が開始された。
大通り3丁目から12丁目までの200戸を貸し付けた。市街地の貸付はその後28年に東1条、29年に西1条、33年には西2条と順次続き、34年までに東2条、3条など大部分が処分された。
明治27年頃の業種別商人名は次の通り。(白浜忠吉絵図などによる)
  雑貨荒物    大内嘉平、上野耕平、小林直次郎(監獄御用商人)
  酒・雑貨店   白浜忠吉(監獄御用商人)
  旅 館      以東菊松(菊松旅館)
  雑貨毛皮商  本名宗三郎、松本浅次郎、土倉豊吉
  雑貨金物    丸山シン
  菓子店    上野延太郎
  呉服小間物  釧路千綿支店(水沢竹次郎)、古沢松野之助
  大工     山田喜太郎、余湖幸吉、佐藤鉄之助、伊藤己之吉
  料理店    小桜(関根松福)待合桜(工藤矢柄)丸広(田中たか)曲カ(松浦)
  医師     佐藤兵一郎(外役所医官)
  薬局     松坂陽一郎(外役所吏員)
  土木請負業  朝倉繁七、内田千代松
  駅逓所    三影末太郎
  毛皮商    光武吉、田辺孝三、萩原清助、高野友次郎、村上敬助、石川豊蔵

 これらの商店は、晩成社の事務所(現在の水光園付近)から帯広神社付近の大津街道の左右に店を構えていた。店といっても、間口1間ほどの草ぶきの掘っ建て小屋にすぎなかった。


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